kuppykuppy’s diary

中国語で書かれた羽生結弦選手関連の文章を色々と翻訳しています。速報性皆無のマイペース素人翻訳ですが、よろしければお読み頂ければ嬉しいです。 Twitter:@kuppykuppy2020

百度に掲載されたコラム「天と地に恥じることなく、月と日をいだく!羽生結弦のイナバウアーは何故こんなにも忘れ難いのか? 」

今回も中国のファンの方によるコラムのご紹介です。羽生さんのイナバウアーについての考察です。


最高傑作とは何でしょうか?それは何度も何度も見たくなるもの。それは繰り返し振り返るに値するもの。それはいつどこで見ても心が震えるような感動と美を感じさせるもの。羽生結弦の数々のプログラムは正に最高傑作。羽生結弦の数々の技が最高傑作と呼ばれシンボルと呼ばれる理由は正にそれなのです。

 

最近ちょっとした理由があって羽生結弦イナバウアーを振り返っています。そして気づきました。昨今は男女を問わずイナバウアーができる選手が少なくありませんが、やはり多くの人に愛されているのは羽生結弦イナバウアーです。

何故でしょう?それは彼の技が安定していて転んだりしない(こら、そんな基本的なことをわざわざ言う必要ないでしょ)だけではなく、いつも感情がこもっていて非常に正確な動きで音楽の中の最適なポイントを捉えて行われ、見る者の心の琴線に触れるからです。

 

天と地に恥じることなく、月と日をいだく。

 

これが羽生結弦イナバウアーの魅力。

 

イナバウアー、レイバックイナバウアー(Ina Bauer)はイーグルに似ていますが、違うのは片側の膝を曲げて腰を反らせる動きが伴うところです。ビールマンと同じく、イナバウアーに必要とされるのは選手の腰部の力と柔らかさですので、美しいイナバウアーができるのはほとんどが女子選手です。かつて日本のフィギュアスケート女王荒川静香イナバウアーは素晴らしい最高傑作となっていました。

そして羽生結弦イナバウアーを練習し始めたのも故郷の先輩への尊敬の念からでした。再スタートした仙台のリンクに荒川が帰ってきた時の放送で、現地の司会者が「ここにはビールマンイナバウアーができる男の子がいるんですよ」とキューを出しました。驚く荒川に向かって悠然と滑って来て、すぐさまイナバウアービールマンを披露したのが、小さな小さな羽生結弦でした。

 

「男子でこれは凄いですよ!」荒川は感慨深げに言いました。その後、この男の子がオリンピック二連覇のフィギュアスケートのGOATとなり、その上27歳になってもまだイナバウアービールマンができるだなんて誰が予想したでしょうか。

 

北京オリンピック前に新華ネットが微博で行った「あなたは羽生結弦の代表的な技のうち、どれが1番印象に残っていますか?」というアンケートで3位になったのがレイバックイナバウアー。ファンたちがこの技をどれだけ愛しているかがわかります。

 

そして2022年FaOIの楽公演。羽生結弦はアンコールの『ノートルダム・ド・パリ』で、ステージから飛び降りてリンクに駆け出しました。音楽の最高潮でリンクを貫いて見せた泣くような、訴えるような、歌うような、吟じるようなイナバウアーは、舞台からリンクへの流れを美しく繋げたのでした。

 

心が揺さぶられました。

 

初めて見た人は言うかもしれません。普通のイナバウアーでしょ?沢山のプログラムで演じられているし、どれも同じでしょ?と。しかし何度も見ているうちにわかるでしょう。同じイナバウアーでも羽生結弦はいつもプログラムの内容によって、音楽によって、全く違った見せ方をします。長さや手の動きだけではなく表情も。彼のイナバウアーは一つ一つ全て違うのです。

 

ホープ&レガシー』のイナバウアーは、優しく、力強く、全てを包み込む春の大河のよう…

 

『春よ、来い』のイナバウアーは、顔を上げた瞬間、瞳の中には桜の花が咲き誇り、指先には春風のような暖かさ…

 

櫻ちゃん春ちゃんイナバウアーを見た後で『Origin』のイナバウアーを見ると、その違いが実感できると思います。

腰を反らせる角度や浮かべた表情が全く異なるこのイナバウアーでは、悲痛な思いを秘めた強さが表現されています。

 

そして『ノッテステラータ』の白鳥のイナバウアー。腕の動きは伸びやかで、まるで湖畔の白鳥が翼を広げ、星の光の中で翼をはためかせて飛び立つかのようです。何とロマンティックで優雅なのでしょう。

 

羽生結弦イナバウアーはこんなにも長年に渡り、まだ続けていると言うだけでなく、ますます進化し続けています。黒オリジンの印象深いイナバウアーと言えば、2018年のグランプリシリーズロシア大会で披露されたものでしょう。彼は試合前の公開練習で怪我をしたと言うのに、難易度を落とすことなく素晴らしい闘いを見せてくれました。

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このイナバウアーは音楽がクライマックスを迎えた時に行われました。腰の角度は非常に深く、実施時間はとても長く、しかも羽生結弦は左手で顔を覆っていました。この瞬間のイナバウアーは決意のこもった所作で、ニジンスキーの壮絶で美しい人生を表し、羽生結弦の戦士としての勇敢さと確固とした意思を表現していました。

 

一番苦しい時でも尚、完璧な演技をみんなに見せてくれる。これには完璧なテクニックと腰部や腹部の体幹コントロール力の強さだけではなく、勇気と愛と気概が必要です。

 

では私たちは何故羽生結弦イナバウアーが好きなのでしょうか?それは、心からの愛と誠意から作り出される技には忘れ難い美しさがあるからです。

百度に掲載のコラム「羽生結弦 夢を追う人 夢を創る人」

前回と同じ方によるプロローグ横浜公演に関するコラムです。今回も教養溢れる素敵な文章。

途中に引用されている荘子の作品も深いです。

 

北京オリンピックフリースケーティング。あの決意に満ちた挑戦の後、羽生結弦がインタビューで何度も触れたのは9歳の自分のことでした。あの勇敢で何も恐れない、4Aの挑戦で氷に倒れ込んだ自分を助け起こした9歳の小さな羽生。


2022年2月、北京オリンピックが終わった後、私はコラムを一本書きました。タイトルは「羽生結弦:夢を追う純粋な心」。誠実で勇敢。わがままで負けず嫌い。私は思います。9歳の時も27歳の時も、彼はずっとひたすらに突き進み、孤独に闘い夢を追い求めて来た人だと。


北京オリンピックの9ヶ月後、競技の場を去ったもののリンクからは去らなかった羽生結弦は、夢を追う人から夢を創る人になりました。

 

羽生結弦がプロアスリートへの転向を発表した記者会見で言っていた通り、彼のフィギュアスケート人生の第二幕が始まります。史上例のないワンマンアイスショーはまさに彼が選んだ新しいプロローグの幕開けにふさわしいものでした。


「プロローグ」がスタートする前、多くの人が思いました。きっと素晴らしいショーになると。しかし、ここまで素晴らしいとは誰にも想像できませんでした。

 

究極のロマンティスト羽生結弦がファンのために作り出したのは単なるアイスショーではなく、この上なくロマンティックなこの世の夢の世界でした。

 

これは「夢」ですよね。あなたは羽生結弦の「プロローグ」以外のショーで会場のライトを全て灯し、6分間練習を行い、試合と同じようにコールされ、試合とほぼ同じジャンプ構成でプログラムを演じるのを見たことがあるでしょうか?


これはまさしく「夢」の中でしか見られない光景。1回のアイスショーでで27歳の、もうすぐ28歳になる羽生結弦ビールマンを3度も見せてくれるなんて…


これは間違いなく「夢」としか言いようがありません。かつて数え切れない人たちの心の扉を押し開けた「憧れ」の少年ロミオが大画面の中で叫び、プロローグの時空の扉からはあの時のコスチュームを纏った27歳の羽生結弦が滑り出して来ました。全てが変わったけれど、何一つ変わっていなくもある。それはあの頃から今なお続く感動…


もちろんこれらも、クライマックスを飾った『いつか終わる夢』『春よ、来い』の2つのプログラムの夢幻の世界には及ばなかったかも知れません。ショーが終わってまる1週間が経った後も、ほとんどの人はまだ理解できないでいるでしょう。彼が一体どうしてこんなことを成し遂げられたのか。

 

リンクは真っ暗になり、彼は光に従って氷の上を動いていました。それとも、光が彼に従って動いていたのかも知れません。北の果ての暗き海に魚あり。その名は鯤(クン)。鯤(クン)の大きさたるや幾千里なるかを知らず。鳥と化せば、その名は鵬(ホウ)となる。鵬(ホウ)の背たるや幾千里なるかを知らず。(訳者注:「北の果ての暗き海に…」は庄子の作品「逍遥遊」の冒頭からの引用のようです。この鵬は何千里も上空に昇り南の果ての海まで飛びますが、蝉や鳩はそんなに飛んで一体何になるのかと嗤います。世俗に生きる者には何にも縛られない自由な世界にいる、全てを超越した者の生き方は理解できないのだ、と言うことがその続きに書かれています。)深海にいる人魚の足元まで届いたあの水の流れ。肌寒い春風の中で終に綻んだあの桜の花。それはフィギュアスケートだったのでしょうか?それとも芸術?一幅の絵画?それとも流れ行く、言葉では表せない、夢の中で見た夢?

 

「魂とともに舞っていたり、歌っていたり、感情を表現していたり、本当に幻想的な風景の中で水中にいたりっていうシーン」。羽生結弦は『いつか終わる夢』と『春よ、来い』の最後の場面についてこのように描写しましたが、それはまさに私たちが感じ取ったものと同じでした。

 

人が魂の全てを込めて氷上で舞う時、氷そのものに魂が宿ります。天と地の大いなるを知りし者、草木の青さを慈しむ。私たちは羽生結弦がいつも語っている「羽生結弦フィギュアスケートを全うしたい」という言葉の意味をやっと理解したのです。

 

それはこれまでのフィギュアスケートとは全く違う別のカテゴリーの、真に技術と芸術が合わさった新しい表現の形でした。彼はずっとわがままに自分の夢を追い求めて来ました。ショーの最後に誰もが涙したVTR『サザンカ』にあった通りに。映像の中の羽生結弦は小さい頃からひたすら夢を追い求め、何度も何度も転び、怪我をし、傷付いて来ました。しかしどれだけ傷だらけになったとしても、また立ち上がることさえできるなら物語は続いて行くでしょう。


物語は確かに続いています。

 

2月の北京の冷たい春風は11月の晩秋になって終にこの上なく美しい桜の花を咲かせました。かつて必死で掴み取ろうとしたあの光は今、羽生結弦の手の中にあります。「(まずはこのプロローグを毎日毎日、成功させるために努力していったこととか、きょうはきょうで、一つ一つのジャンプや演技に集中していたこととかが)積み重なっていって、また新たな羽生結弦というステージにつながっていったり。それが積み重なっていくことで、新たな自分の基盤ができていったりもすると思うので、いまできることを目いっぱいやって、フィギュアスケートの限界を超えていけるようにしたいという気持ちでいます。それが、これからの僕の物語として、あったらいいなって思います」


かつて懸命に夢を追いかけていたあの少年は数え切れない人のために夢を創るフィギュアスケートの神様になりました。

 

でも羽生結弦が夢を創る人になったなら、その夢は手の届かないようなものなのでしょうか?

 

最後の曲が終わると、フィギュアスケートの神様はシンプルなTシャツ姿で戻って来て、アンコールの『パリの散歩道』を演じました。屈託のない少年の姿で。そして格好をつける仕草の時には以前と同じように少しはにかんだ表情。最後の最後、笑顔でその場を去り、再び開いた「序章の扉」を象徴するかのように、これまでと同じく全ての観客に向かって「ありがとうございました」と叫んだのです!

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これを見て私は思い出したのは2015年、20歳になったばかりの羽生結弦がドキュメンタリーの中で語った「わがままであり、頑固であり、負けず嫌いでありたいなと。」「しっかりと(大人になったよって)胸を張れるような人間になりたい。」という言葉です。

 

ほら、7年経っても変わっていません。夢を追うのも夢を創るのもやはり彼なんです!そんな羽生結弦は自分のことを「幸せです」と言いました。

 

そして幸運にもそんな彼を見守ることのできる私たちはもっと幸せでなのてはないでしょうか。

百度に掲載のプロローグ横浜公演感想「これってオリンピックの開会式ですよね!羽生結弦の初のワンマンアイスショーは想像を超越していた! 」

この方の美しくて優しい文章、大好きです。

百度などで頻繁に羽生さん関連の文章を書かれているファンの方による、プロローグ横浜公演の感想。

 

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朧に霞む幽玄の世界。天上に昇るような、深い海に潜るような。これこそが羽生結弦がもたらす極上のフィギュアスケートの視覚の喜び。

 

羽生結弦の初のワンマンアイスショー『プロローグ』の横浜公演は11月5日に成功裡に幕を閉じました。2日間の公演は両日とも超満員。1万6千人以上の現地観覧者、3万人以上の映画館での観覧者、そして2日目にはライブ放送もあり、世界中の人々がリアルタイムでこの視覚の饗宴を楽しみました!そして羽生結弦がもたらす全く新しいフィギュアスケートの美しさに心を震わせたのです!

 

羽生結弦のこのアイスショーを一つの言葉で表すのは難しいのですが、彼が見せたのは誰も見たことがない、様々な芸術を融合させたパフォーマンスでした。どうしても言葉で表せと言われるならば、私は正に「羽生結弦フィギュアスケート」だったと言いましょう。

 

特に羽生結弦が自身で作ったという『いつか終わる夢』。

 

それは伝統的な「フィギュアスケート」の形ですらありませんでした。

 

ジャンプがなく、スピンもなく、あったのはスケーティング。心のままのスケーティング、流れるようなスケーティング、優美なスケーティング。

このプログラムは羽生結弦が練習の最後に毎回行うクールダウンの動作をイメージしたものです。前からファンたちが見たいと願っていた「大好物」の動作。羽生結弦は語っています。『いつか終わる夢』の曲を聴きながらクールダウンをしている時、その動きとこの曲がぴったり合うことに気付いた。そう言えばファンの皆さんもクールダウンが好きだと言っていたし、これを一つのプログラムにしようと決めたのだと。

 

クールダウンは練習やスケーティング技術のテストに使われる動作です。一見簡単ですが、選手の基本的な技術が試される構成になっています。そして羽生結弦ならひたすら滑るだけでプログラムに込めた思いを伝え、プログラムの内容を豊かに表現できるのです。

 

更に羽生結弦は幻想的なライティングや氷上に映し出されるプロジェクションマッピングで、このプログラムを本物の芸術品に仕上げました。

 

静寂の中、幕が上がる。氷上で万物が蘇り、羽生結弦の足元から生命の川が流れ出す…

 

運命の巨大な流れは大きく波打ち、逆巻く。変幻自在を極める波と雲の間でどれだけのものを転覆させ、どれだけのものを沈め、そしてどれだけの激流を起こすのでしょうか…

 

人生はまるで海。しかし夢がいつも彼の心強い翼になります…

 

どん底にいるあなたを抱き締め、あなたを支え、あなたに新たな希望を授けてくれる…

 

真っ暗、灯る、光を受け止めて、応援、夢、ただ滑る、希望、想い、水面、分かっている、感情、怖い、独り、消える力、世界、呼応……

 

ライトが再び暗くなり、彼の足元から文字が生まれて来ます。

 

ここからはこれまでの全ては序章。

 

これはいつかは終わる夢、そして永遠に終わらない夢。

 

夢のようで幻のようで。水の中で人魚が歌っているようであり、空中で精霊が舞っているようでもありました。羽生結弦のこんな幻想的な演出をサポートしたのが日本のトップ舞台芸術家であるMIKIKO氏でした。

彼女は大好評を博したリオデジャネイロオリンピック後の「東京8分間」の総監督であり、2020年の東京オリンピック開会式の舞台デザイナーを務める予定であった方です。

 

この『いつか終わる夢』だけではなく、アイスショーのラストの曲『春よ、来い』の煌びやかで伸びやかな氷のライティングもMIKIKO氏が羽生結弦のためにデザインしたものでした…

 

「演出をMIKIKO先生にお願いしました。」

「初めてここまで本格的なプロジェクションマッピングも含めて演出としてやって頂いたので、また皆さんの中でフィギュアスケートのプログラムを見る目が変わったと思うし、実際に会場で見る、近場の自分と同じ目線で見るスケートと、上から見るスケートと、カメラを通して見るスケートって、全く違った見え方がすると思うので、ぜひぜひそういうところも楽しんで頂きたいなというプログラムです。」羽生結弦は初日のショー終了後のインタビューでこのように語りました。

 

そう、自身のこのアイスショーの「総監督」として羽生結弦が考えたこと、行動したことは単なる「フィギュアスケート」の範疇を超えていました。彼は卓越した芸術表現力、技術力、美的感覚、実行力、そしてもちろん財力も躊躇わず使って、歴史上例のない、比類のないフィギュアスケートのショーをこの世界に捧げてくれたのです。

 

ショーが終わった後、ネット上にこのようなコメントが出てきたのも無理はありません。

 

「私が見てるのは本当にオリンピックの開会式じゃないの?」(心から同感です!)

 

羽生結弦はどうして2020年の東京オリンピックの開会式に出なかったの?彼がこのプログラムで出演したら、東京オリンピックの開会式は救われたのに!」(うん、でも東京オリンピック夏季オリンピックなんですけどね!)

 

「2030年札幌オリンピックで開会式にはこれをやると申請したら招致が叶うはず!」(もし招致できたら、羽生結弦が開会式に出てくれますように)

 

……

 

ですから私たちは最後にこの問いに答えましょう。羽生結弦の『プロローグ』が始まる前はどんな想像をしていましたか?実際はその想像に応え、そして想像を超えるものでしたか?

 

答えはきっとイエスですよね。

 

それはあらゆる想像を超越したパフォーマンスでした。

澎湃新聞の記事「羽生結弦にはどうしてこんなに多くの中国ファンがいるのか」

羽生選手プロ転向のニュースを受けて北京オリンピックを取材した撮影記者さんが書かれた記事。

北京オリンピックの取材で羽生選手の直向きな情熱や謙虚さに触れて心を動かされた思い出が綴られています。

 

澎湃新聞 2022-07-19 21:18 上海より

澎湃新聞記者 馬作宇

 

羽生結弦が競技の舞台に別れを告げ、今後はプロスケーターに転身する。

 

このニュースを聞いて、私は少なからず驚いた。と言うのもつい3、4ヶ月前はSNSでの羽生結弦に関する話題といえば、彼が日本オリンピック委員会へのメッセージ企画でで発した「僕も(札幌冬季オリンピックに)出たいです」という期待のこもった言葉だったから。

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私は羽生結弦の熱狂的なファンだというわけではない。しかし北京オリンピックミックスゾーンやプレスルームで何度か間近で彼に接して、私は彼の人間性の魅力を心から感じ、どうしてこんなにも多くの中国ファンが真っ直ぐに羽生結弦を応援するのかを理解した。

 

北京オリンピックの撮影記者証を手にした私は、幸運にも会場でフィギュアスケート競技の撮影をする機会を得た。その際、会場での撮影場所は基本的に防護フェンスを隔てただけの場所だった。

 

言い換えれば羽生結弦のリンクでの一挙一動が私の目の前で繰り広げられたのだ。

 

転倒、それが恐らく私が北京オリンピックフリースケーティングの会場で残した羽生結弦に関する記録の中で一番多いシーンだ。人類のフィギュアスケート史上初の完全な4A(4回転アクセル)を期待しつつ、私の脳裏には転倒シーンが何度も流れてしまうという、記者としてとても複雑な心境だった。

 

最終的に待ち受けていたのは後者だった。

 

実は羽生はウォームアップで最後に試した1回でも転倒していた。そして本番の演技が始まり、最初のジャンプで全力で離氷したが、結果は転倒。

 

しかし彼はすぐに身を翻し優雅に立ち上がって引き続き演技に集中した。しかし次の4回転ジャンプで羽生結弦は再び転倒…

 

その時私のそばには1人の日本人カメラマンがいた。彼は羽生結弦のこの試合での決定的瞬間を一心に記録し、そして何度もため息をついた。

 

その連続のため息に込められた思いを読み取るのは難しいことではなかった。

 

残念なことに、私たちは北京の氷の上で完璧な4Aを見ることができなかった。そして今後のフリースケーティングの舞台において羽生結弦が人類「初」を完成させるのを見ることはできないかも知れない。

 

「本当に申し訳ないです。」試合後のミックスゾーンの通路の一角は100人近い日本や中国の記者で埋め尽くされた。私もその中の1人だった。

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1時間半ほど待って始まった試合後の取材で、羽生結弦がその場にいたのは十数分だけだったが、幾つかの短い質疑の中で最も私の印象に残ったのは彼の礼儀正しさと、謙虚さ、行き届いた気配りだった。

 

「一生懸命頑張りました。報われない努力だったかもしれないですけど、でも…。一生懸命頑張りました。」試合後のこの言葉から誰もが羽生結弦の落胆と満足できない気持ちを感じ取れた。

 

実際は彼はもっと簡単なやり方でこの北京オリンピックに参加することができた筈だ。しかし彼は1番険しい道を選んだのだ。

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ミックスゾーンを立ち去る時、羽生結弦は全ての記者に深々と頭を下げた。その時、彼はまだ自分の感情の中から抜け出すことができていないようで、目はまだ少し潤んでいた…

 

このフリースケーティング後の取材で、多くの記者は物足りなさを感じていた。記者だけではなくファンも、みんな羽生結弦に聞きたいことが沢山あっただろう。そのためか、彼のチームはオリンピック期間中に記者会見を行うことを決めた。

 

かくして、私はもう一度近くで彼を見る機会を得た。

 

その記者会見が始まる30分前には、その時間仕事の割当がないボランティアや、職員、取材待ちの記者が北京オリンピックインプレスセンターを取り囲み、身動きもできないほどになっていた。

 

全く大袈裟ではなく、北京オリンピックインプレスセンターがオープンして以来、これに匹敵する賑やかな光景が見られたのはあのビンドゥンドゥンのグッズ発売の時だけだ。

 

その時、私の近くにいた2人の学生ボランティアは既に興奮して感情を抑えられない様子だった。私は好奇心から聞いた。「あなた方は何故そんなに羽生結弦が好きなんですか?」


彼女たちは言った。「私たちは2014年から羽生結弦を好きになりました。中国杯での演技が本当に情熱的で。もう長い間彼からずっとポジティブなエネルギーをもらっています。まるで漫画の主人公のような人です。」 

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確かに、羽生結弦があんなにも魅力的な大きな理由はそれだ。彼の一挙一動、言うこと成すことの中に情熱が見えるのだ。一人の人間がずっと力をくれ続けるなんて、現実の世界ではなかなかないことだ。


2014年のグランプリシリーズ中国杯で閻涵と衝突した後、頭に包帯を巻いてでも出場を貫いたり、「一生懸命」(「一生をかける」と言う意味)という言葉でフィギュアスケートへの姿勢を表現したり、氷を神様や友達のように扱い、離れる前には口づけをしたり…

 

彼はまさに日本の熱血漫画の主人公のようにいつも純粋さと固い意志を持ち努力を続けている。

 

記者会見の場を立ち去る前、羽生結弦は再び全ての人に向かって深々と頭を下げた。一度の記者会見で彼は合計6、7回頭を下げ、そして慎み深く立ち去った。

 

しかもレンズに写るところだけではない。彼はブースの中の同時通訳者にも頭を下げたのだ。

 

北京オリンピックで数えるほどだが羽生結弦に近距離で「接触」する機会があって以来、私は羽生結弦の動向に注目するようになった。私はまだ羽生結弦のファンとは言えないのだが、私は彼の人間的な魅力に間違いなく心を動かされた。更に言えばあの冬の日、私は暖かい感動を受け取った。

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これからの日々、羽生結弦は2度と競技の舞台に現れないのかも知れない。しかし彼は氷の上に留まり、彼ならではのやり方で、人生への前向きな姿勢を見せ続けてくれるだろう。

 

羽生結弦とスケートの「一生懸命」な絆は容易く断ち切れるはずが無い。彼はきっと一生スケートに夢中だ。

【振り返り】CITIZENさん北京オリンピック後の投稿

時系列めちゃくちゃですみませんが、過去の翻訳を何回かに分けてアップさせていただきます。

今回はCITIZENさんの北京オリンピック関連投稿です。

いつも暖かく美しい言葉を綴ってくださるCITIZENさん。特にWeChatの投稿はいつもながら素晴らしく、平伏したい気持ちになりました。拙訳お恥ずかしいのですが、この素晴らしさの片鱗が伝われば嬉しいです。

 

2022年2月8日微博の投稿

全力を尽くすことはすなわち志を忘れないこと。

その才能は決して阻まれることがない。

まるで輝く定めのダイヤモンドのように!

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2022年2月10日微博の投稿

誰であるか、何を成し遂げた人なのかは関係ない。

希望を捨てない人には世界をより良くする無限の可能性がある。

今こそが出発の時だ。

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2022年2月11日WeChatの投稿

かつての少年は 今や弓を引き絞り

歳月を恐れず風を恐れず

 


若き志は 熱烈で果敢だ

風を追って駆けていた少年は

手を翻すだけで嵐を巻き起こす勇士となった

彼は既に山の頂に立ち 人の世の景色を見尽くした

 

 

そこで彼は脚を緩めて自らに語りかけた

「停まって待つべきか?」

「否!私は自分の黎明を創らねば。」

 


羽ばたき鳴り響く 火のような信念

聞け 風が黎明を告げる

見よ 光が墨のような暗さを薄めてゆく

 


終に明月が呼び覚まされ

氷雪が心の中を照らし出す

夢は決して傷つけない

熱き心を抱く赤子たちを

 


勝ち敗けとは何か

それは身にまとう冠の中にはない

人々の楽しげな言葉の中にもない

 


心に持つ理想に恥じぬことにあり

覚悟を決めて挑む事にある

 


時代はあなたの章を書き続けている

どうか理想とする前へと進み続けてください

 


BETTER STARTS NOW

鳳凰網体育の記事「羽生結弦のために、私はスポーツ編集者になりました」

鳳凰網体育のインターン編集者さんによる記事です。

北京オリンピックの会場で待っていたけど、羽生選手の姿を見ることができなかった筆者を含めた3人のファン。みんなの純粋でキラキラした思いに触れて暖かい気持ちになりました。

そして羽生選手は国籍に関係なく本当に沢山の人を幸せにしているんだなと改めて。

今回は残念でしたが、3人ともいつか現地でご本人に会えますように!

 

文 | 鳳凰網体育(フェニックススポーツ) インターン編集者 大剛

 

「これまでの人生の中で一番、皆様の応援をいただけたと思える試合でした。どんな状況でも、私のような人間にたくさんの応援をしていただき、本当にありがとうございました。努力と結果の意味や、価値について、深く考えさせられる、これからの人生にとっても、大切な時間になりました。」

 

——羽生結弦

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▎2月20日北京冬季オリンピックフィギュアスケート エキシビション

 


私はきっと最も不運な編集者の一人でしょう。アスリートを乗せた車輌が首都体育館に出入りするための大きなゲートは2つだけ。羽生結弦がどちらから出て来るかは50パーセントの確率です。私は4回行って毎回もれなく彼が来ない方のゲートを引き当てました……。親切な同僚たちが計算してくれました。4回行って全部がハズレになる確率——6.25%!でも羽生結弦には会えなかったものの、そのおかげで私は羽生の中国のファンの人たちと近距離で交流することができました。

 

 

 

仏教徒の人は「人を渡す」「己が渡る」と言います。私の好きな偉大なアスリートが自分が譲ることのできない志と信念を持ち続け、成功の眩い光の中でも全く惑わされることなく、このような方法で「渡る」ことを選んだことがとても嬉しいです。 

——Kerr

 

「蔡さんは世界一の彼氏!」

 

20日エキシビションが終わる前に私は首都体育館の南ゲート前に着きました。遠くに羽生結弦の姿がプリントされた巨大なパネルを掲げた若いお姉さんが見えます。彼女は一眼レフを持って自分の写真を撮っていた男性に向かってそう叫んでいたのです!

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羽生結弦の巨大パネルを持つKerr

 

Kerrの羽生結弦への思いは、全くもってあのフレーズの通りです。——容姿に惹かれ、人柄について行く。

 

「客観的に見ると羽生は物凄いイケメンというタイプではないかも知れないけれど、ついつい何度も見たくなってしまうんです。まさに『氷上の貴公子』。そして私が一番惹かれるのが、彼のフィギュアスケートに対する思い、骨身に刻まれたフィギュアスケートへの愛、完璧と言える芸術的表現力です。友達と冗談で、柚子の芸術に対する理解はもう採点の審判を上回っているよねと話しています。」

 

2018年2月の平昌冬季オリンピックで、羽生結弦は総合得点317.85点で男子フィギュアスケートシングル種目で優勝。フィギュアスケート男子シングルの選手として66年ぶりの冬季オリンピック連覇を果たし、数えきれない人たちの心を動かしました。Kerrもその中の一人でした。

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2018年平昌オリンピックでの羽生結弦

 

「平昌オリンピックの「陰陽師」の晴明様が、私の一番好きな演技です。(それと今回の天と地と)芸術的表現に欠点が見つかりません。もしあるとしてもそれは演技の一部分です。月には暗い時と明るい時、満ちている時と欠けている時がありますから。

 

彼女が言葉からわかるように、中国人は根っからロマンチストで、心の中に秘めた思いを持っています。陳滢による羽生結弦の解説が大人気な理由もそこにあるのでしょう。私たちは努力する勤勉な人が好きで、羽生はまさにそのイメージそのものなのです。

 

「今回彼が試合のために北京に来ると知って、彼が到着する前からずっと楽しみにしていました。嬉しかったのは、彼の試合を見られるからではなく、彼が我が国の大会に来て私が住む街で演技をして、おまけに半月以上も滞在することがわかったからでした。それからの日々はまるで春の遠足のお知らせをもらった小学生みたいに、毎日が期待でいっぱいでした。

 

Kerrが他のファンと違っていたのは、彼女は1人で会場に来たのではなく、隣には彼女に一途なボーイフレンドがいたことです。

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▎Kerrとボーイフレンド

 

「私は羽生の試合の期間は毎日インターネットを注視しますし、2月14日のバレンタインデーの夜でさえ羽生結弦の動画を見ているので、間違いなく彼はやきもちを焼いています。でも私が羽生の過去の試合の動画を勧めると、彼も羽生の演技に深く感動したんです。」

 

最初Kerrは現地に羽生を応援に来ようとは考えていなかったのですが、ボーイフレンドの蔡さんがどうしても彼女を首都体育館に連れて行ってやりたいと思い、彼女のためにわざわざ画像をアレンジして大きな羽生結弦パネルまで作ってくれたのです。パネルは大きすぎてバイク便のお兄さんには預かりを拒否されました。すると、この蔡さんはオンラインの配車サービスで車をチャーターしました。運転手さんは羽生のパネルを持って北京第三環状道路をほぼ一回りして首都体育館まで走り、パネルをKerrの手に届けてくれました。

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▎人混みの中でパネルを掲げるKerr

 

でも、結局私たちはゲートの選択を誤っていて、羽生はもう一つのゲート(西北ゲート)から出て行ってしまいました……。その場にいたファンはみんな茫然となりました。Kerrも例外ではありません。彼女はボーイフレンドの蔡さんと手を繋いで西北ゲートの方に向かいました。道中、蔡さんは慰めるような目で彼女を見ていました。確かな答えを求めるかのように、Kerrが警備のお兄さんに羽生は本当に出て行ったのかと確認すると、お兄さんは言いました。「行ったよ、ここにいた沢山の人たちが彼を見送ったよ!」見送られて出て行ったと聞いて、Kerrの心は少し癒されました。

 

「羽生のこの度の北京オリンピック出場に感謝しています。こんなにも沢山の人が彼のことを好きで、彼はそれに値する人です。羽生にとって全てが順調でありますように!羽生を好きな人たちが毎日幸せでありますように!そして私の彼氏蔡さんにもう一度感謝!」

 

 

 

彼が4Aを跳ぶことができなくても、彼が私の心の中の光であることに変わりはありません。ファンたちが彼に言う「You are the light」という言葉の通り、彼は光なのです!

——光姉さん

 

光姉さんに出会ったのは2月10日、フィギュアスケート男子フリーの当日でした。羽生結弦は大きな期待を寄せられていた4Aを完成させ切ることはできませんでした。何度も考えた末に、私は光姉さんに羽生が4Aを完成させられなかったのを見てどんな気持ちなのかを聞いてみることにしました。実は私は彼女が「残念」と言う趣旨の返答をすると思っていたのですが、彼女の答えの中に「残念」はなかったばかりか、「希望」が満ちていました。

 

「彼が今回来られて、自分の一番いいもの見せることができたことにとても感動しました。彼は光です!どこに行こうとも彼が放つ光を遮ることはできません。」

 

この答えを聞いて私はちょっと恥ずかしくなりました。そして光姉さんと比べると私は器が小さいなと思いました。

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羽生結弦はエキシビジョンの演技で氷に口付けをした

 

光姉さんが羽生を好きになった2016年から今で6年。彼女の中では羽生を知ることができたこと自体が幸せなことです。千人の人の心の中に千人のハムレットがいるように、一人一人のファンから見える羽生結弦もそれぞれ違います。光姉さんが見ている羽生はいつも情熱に満ち溢れていて、絶えず自分を超えていき、負けることが大嫌い。彼のそんなところが彼女にいつも元気をくれています。

 

光姉さんに目が行ったのは、彼女が首都体育館の前で小学生の娘さんを連れて羽生を待っていたからです。その時私の頭をよぎったのは賀峻霖(時代少年団のメンバー)のお母さんが彼を連れてスターの馬天宇(歌手、俳優)追いかけている場面でした。子供連れでスターを追いかける現実の場面を見るのは本当に初めてでした。

 

「彼女は割と私のことを理解してくれています。彼女に言ってたんです。今日は私に付き合ってくれたから、あなたに好きな人ができた時には、ママが絶対一緒に見に行ってあげるからねと。」

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北京冬季オリンピックエキシビジョンの群舞の一幕

 

どうして彼女を光姉さんと呼ぶかですか?あの日話した時間はそれほど長くなかったので、彼女の名前を聞けませんでした。でも何か名前をつけないと。私の心にすぐさま浮かんだのが「光」という文字でした。羽生は光姉さんの「光」。そして光姉さんが私と話している時、光姉さんの目の中には「光」が瞬いていました。だからこそ、光姉さんは「光」を娘さんに伝え、追い続ける価値があるのはどんな「光」なのかを教えたいのでしょう。私は、それこそが光姉さんが娘さんを連れて「光」を追いかけることを選んでいる理由なんだろうなあと思いました。

 

 

 

2020年には私は大学四年生!絶対にすごい若手記者になって、絶対に彼にインタビューするんだ!

——2016年の大剛

 

私は編集者であり、何の変哲もない一ファンです。

 

2016年、フィギュアスケートを題材にしたアニメが人気となりました。そのアニメが好きになった私は関連情報の検索を開始しました。そして当時そのモデルだろうとの声が一番高かった人物——羽生結弦に興味を惹かれました(しかし、そのアニメのモデルは誰なのか公式の解答は今も出ていません)。

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2014年、頭に包帯を巻いて試合に出場した羽生結弦

 

検索で一番最初に見つけたのはファンにとって一番辛い「オペラ座の怪人」でした。あの時、試合前の6分間練習で中国人選手の閻涵と衝突し、2人とも深刻な怪我をしましたが、彼らは何と2人とも試合に出ることを選びました。羽生は頭に包帯を巻き、8回ジャンプして5回転倒しました!転倒したとはいえ、何と3lo以外の全てのジャンプの回転数は足りていたのです。最後に転倒した時、彼はもう立ち上がるのがやっとでした。一挙一動が見る人の心を揺さぶりました。包帯が緩み、頭にじわじわと血が滲んでオペラ座のファントム」は既に「流血のファントム」になっていましたが、彼は気にしていないようでした……

 

私は思います。彼を好きになったことに何か特別な理由があった訳ではありません。ただ彼からとても強い力を感じたんです。彼は自伝の中で書いています。「僕が精一杯演技する姿を見て、少しでも前を向いていく勇気になれればと願っています。」断言できます。私はその力を受け取って、前に進み続けていると。

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羽生結弦が自伝の中でファンに宛てて書いた言葉

 

一人で楽しむよりもみんなで楽しむ方がいい。私は周りの友達に布教を始めました。結果、休み時間のたびに女子高生たちが、昨日の夜も彼のあのプログラムを見たんだとか、彼の情報を見つけたとか、情報交換をし合うようになりました。2022年に冬季オリンピックが北京で開催されることが分かると、みんなで毎日6年後のことを空想する日々が始まりました。

 

「2022年には大学4年!絶対に凄い若手記者になって絶対に彼にインタビューするんだ!」

 

「みんなでチケットを買って彼を見に行こうね!」

 

「うんうん!最前列に座りたい!!袋いっぱいのプーを持って行って演技が終わったら全部投げよう!」

 

……

 

そんなことを話しても何にもならないとは言え、あの頃の私たちはずっとそんな話をして休み時間を過ごしていました。高校卒業後、私はジャーナリズム関連の専攻に無事合格しました。でも卒業してしまうと、一緒に試合を見ようと話していた仲間たちは散り散りになってしまいました。おまけに突然襲ってきたコロナ禍。もう本当にどうしようもなくなってしまいました。それでも、凄い記者になって彼にインタビューするという私の思いは揺らぎませんでした。

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北京冬季オリンピック男子ショートプログラムでの羽生結弦

 

ですので、私はひたすら資料を検索し、方法を探しました。直接インタビューできる望みがないことがわかった時、少し妥協して考えたのは、彼に関する記事を何か書けるだけでも、6年間の望みが叶ったと言えるのではないかということでした。

 

私は成功しました。フェニックスネットの冬季オリンピックインターンになることに成功し、6年間楽しみにしていた16日間を過ごすことに成功したのです。羽生には一度も会えませんでしたが、彼が中国の熱い気持ちを感じてくれたことはわかりました。試合後のインタビューで羽生結弦北京オリンピックの旅を「宝物の時間」だったと表現しました。私にとってもこの1ヶ月余りの時間は「宝物の時間」でした。これまでの22年に体験したことのない経験で、一生忘れられない経験になるでしょう。

 

羽生結弦選手、次の機会に会いましょうね!

鳳凰網体育の記事「羽生結弦の通訳をした中国人の女の子」

北京オリンピックの羽生選手の記者会見で中英同時通訳を担当した25歳の中国人女性についての記事です。

既に訳して紹介して下さってた方がいらっしゃったと思いますが、全文を日本語訳しました。

 

通訳のような仕事をしていた若かりし頃の思い出が甦って懐かしくなったのもありますが、何と言ってもスポーツに特に興味が無かったという通訳さんの心を動かした羽生選手の会見での姿。

訳しながら涙が出ました。

 

鳳凰網体育(フェニックスネットスポーツ)「家凰看台」出品

文|鳳凰網体育(フェニックスネットスポーツ)ベテラン解説者 豊臻

 

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羽生結弦の記者会見の同時通訳者 李文瑨

 

これは平凡な物語だ。しかし、それほど平凡というわけでもない。

 

2月14日に羽生結弦のあの異例の会見が開かれるまで、中英同時通訳者の李文瑨は思ってもいなかった。こんなにも多くの人たちが「小さな黒い部屋」にいる彼女の声を聞くことになろうとは。彼女は、いささか落胆して失望した元気のない語気で訳した。羽生結弦が落胆して失望して元気なく言ったあの言葉を。「我还是想做4A。」(訳者注「4回転半降りたいなという気持ちはもちろん少なからずあって…」の部分かと思います。)

 

それは北京冬季オリンピックのメインプレスルームのメディア席の右側に並ぶ黒い小部屋。彼女は同僚と二人、その中の一つの部屋で中英同時通訳——八種類の言語の同時通訳のうちの一種類を担当していた。これまでのオリンピックでは同時通訳者が記者の視野に入ることはなかった。しかし北京冬季オリンピック組織委員会は小さな黒い部屋を会場に設置し、しかも窓を設けていた。

 

窓はかなり大きい。通訳者はそこから防音ガラスを通して、取材を受ける人の表情や身振り手振りをはっきりと見ることができる。それは情報と感情を構成する大切な要素だ。

     

北京冬季オリンピックのその集まりの、小さな黒い部屋の中の通訳者は世界の各地から来ていた。81歳のスイスのお爺さんもいれば60歳のイタリアのおばさんもいて、25歳の中国のお嬢さんもいる。李文瑨はそのお嬢さんだった。

 

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小さな黒い部屋の中の61歳のロシア人通訳者

 

これは彼女が修士課程を卒業して初めてついた職業だ。記者が質問する時や受け手が回答する時に話す英語や中国語を同時通訳する。

 

通常であれば、彼女の声を聞くのは同時通訳用のイヤホンをつけた会場の記者だけだ。しかし羽生結弦のこの会見には一つ「意外」な点があった。

 

熱狂的な中国のファンたちが会見を心待ちにしていた。メディア側もそのアクセス量を予測していたので、彼らは様々なおかしな経路を使って、ライブ配信する方法を探し当てていたのだ。これはオリンピック組織委員会の公式会見ではなく、羽生結弦側が独自に開いた記者会見なので、バブル外にいるメディアは現地映像の版権についてそれほど気にせずにに済んだ。

 

かくして、李文瑨の落ち着いた穏やかな、しかし気持ちのこもった声はインターネットの隅々まで伝わった。

 

この会見の本当に特殊な点が何なのか、多くの人は気づかなかっただろうが、李文瑨は始まってすぐに気づいた。彼女はこれまでに30回以上の各種の会見を経験してきた。アスリートの隣には通常、広報担当者が座る。ご承知のように、それは一見付き添いのようで、実はある意味護衛だ。しかし羽生結弦は一人で演台に上がった。隣には誰もいない。

 

演台には15の座席がある。羽生結弦はその中央に座った。孤独で、がらんとしている。まるで彼がリンクにいる時と同じだった。

 

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羽生結弦は一人、記者たちの質問を受けた

 

「その時私は少し驚きました。それは冬季オリンピックの記者会見の中で、一番記者が多い会見であり、壇上にいる人が一番少ない会見でした。私は不意に感動を覚えました。羽生結弦の誠意を感じました。彼はまるで何の防御もせずに全ての人の前に出てきたかのようでした。」李文瑨は言った。


同時通訳者として、李文瑨はどうしても独自の視点からオリンピックを見ることになる。彼女が立ち会ってきたのは、アスリートが試合後に世界中のメディアと「やり合う」ところ。彼女は、アスリートの言葉の中に込められた感情、情報をできるだけ正確に伝えなければならない。それらの情報はおそらく全てのメディアに掲載されることになる。「人民日報」、「ニューヨークタイムズ」、「読売新聞」……

 

李文瑨は大学で英語を専攻し、修士課程は翻訳通訳の専科を受験した。中山大学で翻訳を学ぶか中南林業科学技術大学で通訳を学ぶかのうち、彼女は後者を選んだ。彼女は翻訳や通訳の何に魅力を感じたのだろうか。彼女は言う。 “curiosity killed the cat”、この俗語は何と「好奇心が猫を殺した」と直訳できる上、誰にでも理解してもらえる。何だか不思議なのだと。

 

中国の通訳者たちは仕事において、今なお「信、達、雅」の三文字の原則を信奉している。それは100年以上前の厳複の訳書「天演論」の前書きに書かれた金科玉条だ。李文瑨は言う。「信とは基本的な情報を正確に伝えねばならないということ、達とはスムーズでわかりやすくあらねばならないということ。雅は更に難しいです。オリンピックの、このような同時通訳の場では『達』を実現することすら簡単なことではありませんから。」

 

羽生結弦の会見の前に、彼女にとって印象深い会見が二度あった。一つは中国のスピードスケート選手任子威の会見、もう一つは韓国の選手ファン・デボンの会見だ。

 

男子ショートトラック1000メートル決勝戦の後のプレスルーム。優勝した任子威に、ある記者が両親に何を言いたいかと尋ね、任子威は答えた。「何も言うことはありません。オリンピックの競技はまだ終わっていません。」

 

任子威のその質疑は李文瑨と同じ小さな黒い部屋にいた同僚の男性通訳者が訳した。彼女たちの仕事は分担制になっていて、二人は15分ごとに一度交替していた。

 

「その答えを聞いた時、私は少し困惑してしまいました。ある意味本心からの答えですが、答えになっていないようでもあり、うまく訳さないと彼が質問を適当にあしらったかのような誤解を与えてしまう可能性がありました。」しかし彼女の同僚には、インタビューの受け手が話したことが適切かどうかを考えている時間はない。同時通訳の仕事は即座にその内容を訳さねばならないのだ。

 

任子威は自分の回答が少しまずかったと思ったのか、すぐに付け加えた。「私の父は兵士で、私は小さい頃から軍隊の住宅で育ちました。もしショートトラックをやっていなかったなら、きっと私も兵士になっていたでしょう。スポーツは平和な時代における戦争ですよね。私も銃を担いで突撃していると言えるでしょう。親の仕事を子が継いだようなものです。」

 

その言葉には、おそらく大部分の中国人アスリートのスポーツに対する価値観が込められていたと言えるだろう。興味深いのは李文瑨の同僚が「戦争」と「銃を担ぐ」という単語を直接訳さず、それでも「親の仕事を子が継ぐ」の意味を明確に表現したことだ。オリンピックのモットーの中には「更なる団結」が加えられたばかり。おそらく戦争や銃は歓迎されないだろうから。

 

通訳者も人間だ。気持ちが偏ることは避けられない。ホームグラウンドで戦う中国人通訳者なら尚更だ。アスリートをより理解するため、通訳者にとってはあらかじめ試合のライブ配信を見ることが必要不可欠だ。李文瑨は言った。こんなにも沢山、中韓ショートトラックの試合を見てきて、自分の見方にバイアスがかからないようにするのはとても難しいと。彼女が自分がファン・デボンの試合後の会見の同時通訳を担当すると知った時、最初に思ったのは「あ、あの人だ。」ということだった。

 

しかし幼稚な感情をこの厳粛な仕事に持ち込むわけにはいかない。むしろ、彼女と同僚は十分な慎重さを保った。それはファン・デボンが反則と判定された男子ショートトラック1000メートルの準決勝戦が終わった後の会見だった。ファン・デボンの韓国語は、まず英語に訳された。その中のワンフレーズが“I didn’t have a clean game.”だった。李文瑨の同僚は中英同時通訳の際、このフレーズを訳さなかった。

 

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▎李文瑨と彼女の同僚

 

記者会見が終わった後、二人はこの件について話し合った。同僚の見解によると、そのフレーズが何を意味するのか確信は持てないが、ファン・デボンは自分の試合中のプレーがクリーンでなかったという意味で言ったのではないかと。しかし李文瑨は、ファン・デボンは審判の不公平さを非難し、自分はクリーンだと言いたかったのではないかという方に傾いていた。彼女たちはこのフレーズの意味について、韓英同時通訳担当の同僚と討論したが、その同僚もどちらとも言えないようだった。三人ともがファン・デボンの発した言葉の意味にはっきりとした確信が持てなかったのだ。

 

これは理解できる気がする。そもそも「クリーン」という言葉自体に幅広い解釈の余地がある上に、このフレーズの主語もはっきりしない。もしも中国人のアスリートが「私の今回の試合はちょっとクリーンではなかった。」と言ったとしても、一体どういう意味かを断定するのは難しいだろう。 

 

「訳さないことは残念ではありましたが、最良の選択でもありました。先輩が私たちに話してくれたことがあります。通訳とは永遠に欠陥の存在する芸術なのだと。」李文瑨は言った。

 

小さい頃から今まで、李文瑨は決してスポーツファンだとは言えなかった。北京冬季オリンピックの仕事に参加したことで、彼女に初めて少し好きだと思えるアスリートができた。中国の武大靖だ。しかし羽生結弦のその会見は彼女に競技の範疇をはるかに超越したところにあるオリンピックの魅力を感じさせてくれた。

 

その午後、記者たちは30分前からプレスルームを埋め尽くしていた。羽生結弦は入ってくると、まずは全ての人に向かって深々とお辞儀をし、一人で演台に上がった。演台の下にいる広報担当者が、挙手をして質問を始めて良いと説明すると、真っ先に羽生結弦が自ら手を挙げ、まず話をさせてほしいと申し出た。仕事の様々なプロセスについて既に熟知している李文瑨は、問題なくこれに対応することができた。しかし彼女は防音ガラス越しのプレスルームから、これまでに感じたことのないある種の厳かな空気を感じた。

 

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ガラス越しに羽生結弦の表情と仕草がはっきり見えた

 

羽生結弦北京冬季オリンピックで唯一、8種の同時通訳が付いたアスリートだった。羽生結弦に勝ったフィギュアスケート金メダリストのネイサン・チェンですら、付けた通訳は5種だけだった。

 

35分間のインタビューで、羽生結弦は一つ一つの質問にとても真摯に応えた。彼の受け答えは的確で、心に響くものであった。「とても驚きました。彼は本当に誠実でした。私は自然と彼の言葉と感情の中に引き込まれていました。」同時通訳の声を聞いていると、4Aを完成させられなかった自分を慰めながらも、やはりどうしても納得できない人物はまるで彼女自身かのようだった。

 

インタビューが終わって羽生結弦が立ち上がり、座っている報道記者に深々とお辞儀をした時、ライブ中継の画面は既に切断されていた。同時通訳者たちも仕事は終了したと思っていたが、何と羽生結弦は再びマイクを手に取り、小さな黒い部屋に視線を向けて言ったのだ。「通訳の方も、ありがとうございました。」そしてもう一度お辞儀をした。

 

李文瑨は言う。「全く思いもよりませんでした。彼の通訳者への感謝の言葉を訳し終えると、私は堪え切れずに泣いてしまいました。もともとはその男の子にそれほど興味があったわけでは無かったのに。」

 

退場の際には同時通訳はもう必要ない。羽生結弦は全部で5回お辞儀をした。4回は集まっている人たちに向かって。最後の1回は壇上から降りた後にオリンピックの旗に身体を向けて。李文瑨に最後のお辞儀は見えなかった。撮影記者や現場のスタッフが一斉に押し寄せて小さな黒い部屋からの視界は遮られてしまったから。

 

彼女はきっとこの記者会見を永遠に忘れないだろう。それは人類で初めて4Aに挑み、失敗した会見。しかし羽生結弦の小さな宇宙はまだ燃えるように熱い。

 

冬季オリンピックでの経験は李文瑨のスポーツへの思いを作った。「今、思います。スポーツはみんなを団結させることができると。任子威、ファン・デボン、羽生結弦、みんな同じだと思うんです。アスリートは競技場では成績を争っているけれど、みんな一緒に一つのことをしているんです。それはスポーツというもので、人の心を動かすこと。」

 

 3月の冬季パラリンピックが終われば、李文瑨の2年にわたる北京オリンピック組織委員会での体験は終わる。彼女が北京に残るのか、どこかで別の仕事を始めるのかは自分にもまだわからない。しかし彼女は、隣の小さな黒い部屋にいたあの60過ぎのイタリアのおばさんはとてもいいことを言っていたなと思っている。「私はもう40年やってきたけど、まだ続けたいと思っているの。通訳という仕事は毎日新しいことを学べるだけでなく、世界を繋ぐために頑張ることができるから。」

 

おかげで通訳者李文瑨は気付いた。「信、達、雅」が目指す究極の目標。それはまさにオリンピックのモットーの中にある「together」だったのだと。