kuppykuppy’s diary

中国語で書かれた羽生結弦選手関連の文章を色々と翻訳しています。速報性皆無のマイペース素人翻訳ですが、よろしければお読み頂ければ嬉しいです。 Twitter:@kuppykuppy2020

百度に掲載されたコラム「数えきれない人に幸せをくれている羽生結弦は、自分のささやかな幸せさえ手にできないのか?」

あの声明を読んでから、この方がどれほど過酷な環境にいたのか、この方にどれほど常人の想像の域を越える苦しみがあったのか。それに想いを馳せては胸が締め付けられる思いです。

マスコミが諸悪の根源だという声もあります。

しかし、私はその所謂悪質なマスコミが報じたことに嬉々として群がっていたのではないか、彼が見せたくないプライベートの内幕を知りたがっていたのではないか、そんなことを考えて今、反省の気持ちに苛まれています。

 

そんな中、いつも百度に素敵なコラムを書いてくださる方の投稿があったので翻訳いたしました。悲しくて涙が出ましたが、羽生さんが前を向いて進む道をこれからも彼の幸せを祈りつつ、自分のできる形で応援し続けたいという思いがいっそう強くなりました。

 


「数えきれない人に幸せをくれている羽生結弦は、自分のささやかな幸せさえ手にできないのか?」

 

2019年12月23日、その年の全日本選手権が終わった後、私は「羽生結弦であることは何と大変なことか!」というコラムを書きました。

 

あの日彼は負けて、全日本王者のタイトルを「失い」ました。5週間のうちに3試合、カナダ、日本、イタリアを渡り歩き、疲れ果てて完全に調子を崩した彼はフリースケーティングで敗れました。

 

試合の後のインタビューではその背中に無力感が溢れていました。記者が「口実」を探すかのように「この5週間で3戦戦いました。更には今日は最後滑走でかなりのプレッシャーもあったと思いますが?」と質問しましたが、彼は「関係ないです。弱いです。」と答えました。

 

ほぼ同じような質問がまたありました「連戦のせいで疲れていたのでは?」羽生結弦の返答はやはりこうでした。

 

「全部言いわけに聞こえるから嫌ですね。喋りたくないというのが本音です。」

 

この時私は心から思いました。羽生結弦であることは何と疲れることか、何と大変なことか!

 

若くして名を成し美しい衣装を身に纏って送る順風満帆な人生。何千万人ものファンを擁し、人気の秘訣も把握している。こんなことをよく言われますが、二十数年のリンクでの生活で、十年以上もカメラに囲まれ、遮られ、「万人の注目」と「国の期待」という重荷を背負ってきた羽生結弦が普段向き合わねばならないのはどんなことでしょうか?

 

(訳注:次の段落に出てくる時代にははまだファンになっていませんでしたので、当時のエピソードをしっかりと把握できていません。思い込みで事実と異なる訳になっていたら申し訳ありません。)

若い頃は血気盛んで、先輩に追いつきたい一心で奮闘していました。しかしメディアには「生意気だ」と言われ、先輩のファンからは試合会場でタオルを投げつけられたりもしました。実際に先輩に勝って表彰台に立った時、テレビでは彼の場面はカットされていました。そして少年はどうして良いかわからず小さくなっていました。また、インフルエンザが完治していない体を引きずり、ほぼ1人で日本チームのオリンピック出場枠を賭けて闘った時、彼は舞台裏で緊張と自責の念で涙を流しました。その時涙を拭ってくれたのは振り付師でした。

 

その後体つきも次第に逞しくなり、勝利を重ね、オリンピックで金メダルを取り、連覇記録を作って意欲に溢れていた頃にまた事故や病気が重なりました…。彼が異国の試合会場で、腫れて変形した脚をスケート靴に押し込み「靴さえ履いてしまえば大丈夫。」と自分を鼓舞していた時、影でメディアがしていたことと言えば?それは高校時代の同級生とのゴシップの捏造…。その時羽生結弦が何歳だったと思いますか?20歳をやっと過ぎたところだったんです。

 

羽生結弦はかなり後になってこのことに触れ、一時は「死にたい」と思ったと語りました。

 

ですからお分かりでしょう。ファンたちが2023年の夏のFaOIのゲストアーティストの中に中島美嘉がいると知った時、どんな心配をしたか。それはコラボレーションで『僕が死のうと思ったのは』を演じるのではないかということでした。幸いその曲ではなく、この夏のコラボレーションは勇敢な「NANA」でした。

 

人は言います。羽生結弦は若くして得られる栄誉は全て得尽くしたと。競技の上ではフィギュアスケート男子シングルでただ1人スーパースラムを達成し、公式にGOATと呼ばれています。個人的なことで言えば日本史上最年少での国民栄誉賞…。あの仙台の凱旋パレードの様子は、目的を成就させて意気揚々と馬に乗って疾走しているかのようでした。

 

そんな羽生結弦はとても幸せそうですが、その幸せは血と汗を絞り尽くし、日常の小さな幸せを全て捨てることと引き換えに得た幸せです。

 

彼がとても多くの国や地域を試合で訪れたことは間違いありませんが、その国や地域の思い出といえば練習場と試合会場の周辺に限られるでしょう。十何歳かで海外試合に行った時に少しだけ観光ができた思い出が今も残っていると言います。それは、その後ナイアガラの滝の近くで十年近くもトレーニングをしていたというのに、一度も遊びに行ったことがないほどだからこそでしょう。

 

試合が終わった時にだけご褒美に缶コーラを飲みケーキを食べる日々も続いています。以前は試合が終わった時にだけ、今は大きなアイスショーが終わった時にだけ。

 

地元仙台の桜の美しさ、紅葉の美しさ、冬のイルミネーションの美しさも、彼は練習に行く道中でしか見たことがないかも知れません。他の人の邪魔にならないように、ほぼ毎日午前1時から4〜5時までの、完全に昼夜が逆転した練習時間です。2020年のコロナ禍で地元に帰ってから今現在まで、現在までずっとずっとそうしているのです。

 

これはスケートをするにあたって羽生結弦が自分に与える過酷な要求だと言えるでしょう。しかしスケート以外、いやスケートを含めて外界からの彼に対する過酷な要求は、彼が成功し、名を挙げ、連覇した後も減るどころか増える一方です。

 

彼は負けるわけにはいきませんでした。その「負けられない」という巨大なプレッシャーは彼をがんじがらめにする有形無形の大きな手枷足枷となりました。しかし同時に彼は勝ちたいと強く思うことも許されませんでした。2019年の世界選手権の後、苦しんで自分を責めながら引用した歌詞の一節「負けは死も同然」はすぐさまメディアで大袈裟に騒ぎ立てられました。「負けが死も同然と言うなら、負けた人は死ねと言うことか?」と。そして彼は怪我をしても簡単に欠場することはできませんでした。テレビ広告も準備されているのに欠場?と怪我の報告をしても疑われ…。

 

本当に大変です。本当に大変。しかしこのプレッシャーに二十年以上耐えて来た羽生結弦はまだ最大級の善意を持ち続けています。試合の結果が良くなかった時にはマスコミに、「『悔しい』って書かないでくださいね」と頼みましたが、さて、次の日の紙面には大きく「悔しい」という大見出しが掲載されました。「プロのアスリートになる」ことを決めた時には、その大切な思いを自分の口から世界に表明したいと思ったにも関わらず、メディアが聞きつけて「スクープ」として「羽生結弦が引退する」と報じてしまいました。

 

先に述べた通り、原因が彼自身にあったわけでさないミスやアクシデントがあって、皆が彼を「下げる」準備を整えている時にも、自分の問題をそのアクシデントのせいにしたことはありません。

 

2022年の北京オリンピックのあの穴の件のように。

 

神様は羽生結弦に生涯の心残りとなるような穴を与えました。しかし試合後のインタビューの、大きな落胆と失意と微妙な雰囲気の中で彼はメディアに言いました。「氷はとてもよかったです。今まで滑った中で北京のリンクの氷が一番最高でした。」

 

時に思います。この世界で一番得がたい資質である純粋さ、頑固さ、正しい振る舞い、優しさ、善意を羽生結弦は全て持っていると。雨風を乗り越え、無数の目に見えない「弾丸の雨」を潜り抜けて来た彼ですが、これらの資質を失うことはありませんでした。彼のスケート、彼の作り上げる芸術以上に彼の持つこの資質が人を惹きつけています。

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彼はこの純粋さと善意で数えきれない人を優しく温め、励ましてくれます。競技場のスタンドの上から下、テレビ画面の内から外、そして国内の災害にあった地域や世界の各地でどれほどの人が彼の演技と彼の思いのおかげで前を向いて生きたいと願い、渇望し、どれほどの人が励まされ希望を取り戻したことでしょう。

 

しかしこの光で自分自身を照らすことはできなかったようです。試合の際には一瞬の変化を捉えて一番効率的で合理的なジャンプの配置を計算することができる人であっても、競技を離れた自分の私生活でここまで付き纏われ、嫌がらせをされ、誹謗中傷され、脚色されることは計算できませんでした。1人の力で国家の栄誉を背負い「脚が使えなくなったとしても、どうなったとしても滑って勝たねならない。」と言ったこの人でも、愛した人の人生を支えることができず、こんな決別のような形でお互いを幸せにするしかありませんでした。

 

当事者でない者に、このやり方が最適だったのかどうかは分かりようがありません。世界中に本当にその人の気持ちを手に取るようにわかる人などいませんし、「もう少し頑張ればいいのに」などと言う人はみんな適当な話をしているだけであり、痛みも感じていないのです。

 

羽生結弦は小さい頃から練習や試合でカメラの前に立つことに慣れていて「王冠を望むならその重圧を受け入れねばならない」ことを知っている筈だと多くの人が言います。絶大な人気があるのだから注目度は高くなり、無数の双眼鏡で観察されることはわかっているはずだ、当然「こんなことには慣れている筈」だろうと。

 

でも本当にこれは「当然」のことなのでしょうか?試合の時もショーの時もいつもそうでした。羽生結弦が競技で敗れ、幕の片隅で背中を向けて泣いている姿はメディアのカメラに何度も捉えられました…。でもこれはあくまで彼がアスリートだからであり、日常に戻った時、私生活に戻った時にまでそんなに詮索されないとならないのでしょうか?

 

もちろん違います。一年中冷たい寒気が立ち込めるリンクの外に、邪魔されることも覗きこまれることもない暖かい家庭が欲しくない筈があるでしょうか。でも今、彼のこの小さな家庭は無くなりました。

 

結婚は2人の問題です。しかし離婚声明は羽生結弦が出したもの。いつもと同じく責め立てる声、罵る声、理解できないと言う声が彼一人を直撃しています。これも計画通りだったのでしょう。徹頭徹尾守り抜くということが。

 

羽生結弦であることはほんとに大変なことです。数え切れない人に幸せをくれる彼は、最も普通の幸せさえも手に入れることが「許されなかった」のです。