kuppykuppy’s diary

中国語で書かれた羽生結弦選手関連の文章を色々と翻訳しています。速報性皆無のマイペース素人翻訳ですが、よろしければお読み頂ければ嬉しいです。 Twitter:@kuppykuppy2020

新華社通信による山田真実コーチへのインタビュー

NHK杯観戦のために取っていた休暇を取り消さなかったので今日は一日お休み。
テレビで会場の映像を観ていると、行きたかったなー、観たかったなーと思いが込み上げて来ますが、一番悔しくて残念なのはご本人ですよね。
私は私で今できることをやろうと家事をしつつ、山田真実先生のインタビューの記事、訳しました。

「彼はまた優勝できると言った」—冬季オリンピックで2度金メダルを取った羽生結弦の恩師山田真実への独占インタビュー
新華社が日本の札幌から11月9日発信(記者 王子江 楊汀 楊光)

1998年、羽生結弦は人生で初めてのコーチ山田真実に出会った。まだ4歳の彼は知らなかった。大学を卒業して間もないこの女性コーチがその後の4年間で、彼の大スターへの道の大きな扉を開くことになることを。

あれから23年。羽生の名声は世間に響き渡っている。彼はアジア人として初めてオリンピックのフィギュアスケート男子シングル種目で優勝し、今では世界中の羽生ファンに北京オリンピックでの3連覇の実現を期待されている。48歳の山田真実は当時と同じくスケートのコーチをしていて、羽生と同じぐらいの年齢の生徒もいる。ただ、彼女は羽生の故郷仙台を離れ、今は自分の故郷札幌にいる。

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2021年11月5日、山田真実は新華社の記者の取材を受けた。新華社記者 江治 撮影

山田真実は札幌の月寒体育館にて新華社の記者の取材に応じた。ここは1972年に開かれた冬季オリンピックのアイスホッケーの会場であり、山田がスケートを教えている場所でもある。常に子供たちと関わっているせいだろうか、歳月が彼女の顔に残した痕跡は多くないようだ。美しく、知性的で、情熱的。あっという間に過ぎた23年間。羽生が初めて氷の上に立った時の光景がまるで昨日のことのように蘇る。

漫画の中にしかいないような子供

「最初、私は羽生のお姉さんを教えていました。お姉さんのレッスンの時、羽生はいつも付いてきてリンクの周りを絶えず走り回っていました。彼は4歳でレッスンを始めたのですが、強く印象に残っているのは、初めて氷に上がると同時に彼が勢いよく真ん中まで滑って行ったことです。そして“バン”という音とともに倒れ、頭を氷に打ちつけたのです。とてもびっくりしましたが、幸いヘルメットを被っていました。彼は泣きもせず、立ち上がって何事もなかったかのようにまた滑り続けたんです。」

後に羽生の初めてのレッスンでの出来事を思い出すたびに山田はいつも思う。あの子は普通の子とは明らかに違っていて、スケートをするために生まれてきたような子だったのだと。

「子供がレッスンを始める時、普通は一番最初にリンクの外周を歩く練習をさせます。安定して歩けるようになってからリンクに上がらせるのです。幼い子がよちよち歩きを覚えるのと同じです。でも羽生にはこの段階が全くありませんでした。多くの子供は転ぶのが怖くて難しいことをする勇気が出ないのですが、彼は全く違っていました。とても勇気があって、恐怖心が全く無いのです。きっとお姉さんが滑るのをずっと見ていたおかげで、自分にもできるはずだという感覚があったのでしょうね。」

勇敢さだけではない。羽生の持つ、普通の子供にはない「才能」と表現に対する「欲求」に山田は次第に気付いていった。

「例えばジャンプ、スピンの回転を半周増やすには、運動神経が非常に良い子でも2、3ヶ月はかかります。普通の生徒なら半年でやっとです。それを彼は1日でできてしまうので本当に驚かされました。まるで漫画の光景ですよ。そんな不思議なことが起こるのって、漫画の中だけじゃないですか?」

「リンクでの芸術表現といえば、彼は自分流の表現をするのがとても好きでした。音楽の世界や物語に入り込むというよりも、自分の解釈した音楽と表現に没頭するという感じでした。時々、曲の表現とはそういうものじゃない、あなたは大袈裟にやりすぎだと注意することもありました。その頃彼がどれほど大袈裟にやっていたかと言うと、今の3倍ぐらいでしょうね。自分を表現したいという強烈な欲求、それは彼が持ち続けている長所であり、競技をする上での強みの一つでしょう。」

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2000年 山田真実(後列で花を持っている人物)と生徒たち 前列右から2人目が羽生結弦

その頃日本体育大学を卒業してまだ間もなかった山田真実は羽生に対して非常に厳しかった。その少年が時々練習を嫌がってさぼりたがり、気が散って集中できない時、山田コーチはわざと怒ったふりをして「練習したくないなら家に帰りなさい!」と言った。「すると、彼は泣いて帰ってしまうんです。彼を教えていた数年間、彼はお姉さんにくっ付いてレッスンに来ていることが多くて、フィギュアスケートをどうしてもやりたいと言う感じではありませんでしたし、プレッシャーも何ら感じていなかったようです。」

山田は生徒たちに日記をつける習慣をつけるように指導していた。毎回レッスンが終わると、練習の時に起こった出来事、ミスしたこと、滑っている時に感じた楽しさや辛さなどを日記に書き留めさせるのだ。その日記を自分からコーチに見せに来る子たちもいたが、羽生は一度も見せに来なかった。しかし何年も経ってから羽生は日本のメディアのインタビューで語った。山田コーチのおかげで日記をつける習慣がついて、それが大きな力になっていると。

勇敢さゆえの怪我の多さ

4年後、山田真実は家庭の事情で仙台を離れて北海道の実家に帰らなくてはならなくなった。去る前に彼女は自分の恩師であり日本の有名なコーチである都筑章一郎に羽生を託した。都築は厳しいことで有名で、その厳しさに絶えかねてスケートをやめてしまう生徒が多かった。女性ならではの思いやりから、山田は都築コーチに言った。「この子には凄い才能がある。厳しくしすぎないでください。」と。

その後山田真実は、生徒を連れて全国大会に行った際に時々同じ試合に出場する羽生結弦に会い、彼が全日本ジュニアチャンピオンからシニアチャンピオンになっていく姿をその目で見ていた。そして更にその後は、どんどん成長する彼の姿をテレビで見守るしかなくなった。しかし羽生姉弟を教えていた数年で山田と羽生の母親とは何でも話せるような友人になっていて、長年に渡りずっと頻繁に連絡を取り合っている。

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羽生結弦と山田真実コーチ

山田が一番最近羽生に会ったのは2019年の7月、北海道地震の1年目の前後だった。彼は山田のスケート教室にも来て子供たちに演技を見せ、子供たちと話をした。子供たちはとても興奮して彼に沢山の質問をした。山田コーチが興味深く聞いたのは最近怪我をしていないか、いつもゲームをしているのかといった話題だ。

「彼が本当に大人になったのを感じました。話しぶりや立居振る舞いは名誉あるオリンピック金メダリストに相応しいもので、話す内容にも重みがありました。例えば子供たちにオリンピックの金メダルを2度も取ったのに何故まだスケートを続けるのかと聞かれた時は、また優勝できると思うからだと答えたんです。私はそれを聞いてとても感動しました。メディアは一切来ていない場です。彼は挑戦し続ける気持ちと向上心をまだ持っているのです。」

羽生結弦は恩師にスターならではの悩みも口にした。一歩外に出ればすぐに写真を撮られるのだと。山田は「だってみんなに注目されているんだもの。追いかけられなくなったら寂しいでしょ?」と言ってなだめた。

取材の前日、羽生結弦は右足首の怪我で今週末に開催されるグランプリシリーズ第4戦のNHK杯を欠場すると発表した。この試合は羽生の3連覇がかかる北京オリンピックシーズンの初戦として注目されていた。羽生の診断は「右脚関節靭帯損傷」。この怪我で3ヶ月後に開幕する北京オリンピック出場への影響が心配されるところだ。

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山田真実は羽生結弦の当時の写真を見せてくれた

羽生は勇敢で大胆な性格ゆえに、恐れず技に挑むため、小さい頃から怪我が多いのだと山田は言う。「これは彼が他の子と比べて特に顕著な点です。」もう羽生の怪我には慣れているだけに、山田は焦らないで欲しいと願う。実は彼女は既にチケットを取っていて、東京に現地観戦に行く予定だったそうなのだが。

「怪我は必ず治ります。焦ることはありません。来月の全日本選手権にはいい状態で出場できるのではないでしょうか。このレベルの選手になると、誰もが怪我を抱えながら練習して試合に出たり、怪我で試合を欠場を余儀なくされたりしています。ですから、私は彼を信じています。」 

将来はコーチになってほしい

羽生結弦は4月の国別対抗戦以来、試合には出ていない。その試合で彼はショートでもフリーでも3度の世界選手権王者ネイサンチェンに勝つことができなかった。当初の計画では羽生結弦NHK杯で4回転半ジャンプを跳ぶつもりだった。彼は日本のメディアの取材の際に話している。“4回転半”を完成させることが今の最大の夢だと。

羽生は4回転半アクセルを完成させることができると山田は信じている。しかし羽生がこんな高難度の技を取得する必要などないとも思っている。何故なら「彼の表現力とアクセルジャンプは既に世界一なんです。」

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山田真実が羽生結弦を抱っこして撮った写真

「今は4回転アクセルが彼の目標でありモチベーションです。誰に何を言われようとも絶対に跳んでやるという精神と、絶えず努力しつつ子供達に勇気と激励をくれるところ。理想の姿だと思います。」

2年前に会った時、羽生は山田コーチにスケートの教え方について尋ね、引退後はコーチになりたいと話したと言う。山田は答えずに冗談めかして言った。「そんなことより、どうやって4回転アクセルを跳ぶのかを聞きたいんだけど?」

しかし山田は記者に語る。本心を言えば、羽生にいつかコーチになってほしい、自分の経験を活かして子供達にスケートを教え、大衆やメディアの前に姿を見せてフィギュアスケートを推進して欲しいのだと。たとえ20年以上のコーチ人生の中で、スケーターを育てる苦しみが彼女の骨身に染みているとは言っても。

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2021年11月5日、山田真実は生徒たちにレッスンをしていた。新華社記者 江治撮影

「苦しみと楽しみの比率で言うと、苦しみが90%だと思います。でも成功した時にはすごく嬉しいですし、達成感が得られます。自分が選手の頃に成功した時よりももっと嬉しいぐらいです。」

彼女は言う。羽生は日本の普通の家庭に生まれたが、天から授かった突出した才能以外にもこれまでの道のりに沢山の幸運があり、人生のあらゆるステップにおいて好条件に恵まれて来た。実は日本の多くの地域ではフィギュアスケートの練習環境は決して良くない。レッスンを受けるリンクも固定しておらず、いつもあちこちのスケートリンクを転々とせねばならない。時には中心部から40キロ以上離れた空港の近くまで行かねばならないこともある。本格的なリンクはとても少ないので、彼女は普段スケートを教える以外に、協賛してくれる企業をあちこち探し回っているそうだ。

「中国は今ウィンタースポーツの普及に力を入れているそうですね。しかるべき機会が有れば、中国に教えに行きたいです。」

編集者:張悦姗、黄緒国、盧羽晨、趙建通