kuppykuppy’s diary

中国語で書かれた羽生結弦選手関連の文章を色々と翻訳しています。速報性皆無のマイペース素人翻訳ですが、よろしければお読み頂ければ嬉しいです。 Twitter:@kuppykuppy2020

「微信読書」の『蒼い炎』紹介「“フィギュアスケート金メダリスト”“氷上の貴公子”の羽生結弦は実は謙虚な秀才でもあった!」①

微信(WeChat)の読書アプリ「微信読書」の公式アカウントの11月19日の投稿です。卒業の話題から始まり、『蒼い炎』について紹介されています。

羽生結弦の初めての自伝が出版される!この宝物のような人物を誰が好きにならずにいられようか?」

 

報道によると、フィギュアスケートオリンピック金メダリスト羽生結弦は今年の9月に早稲田大学人間科学部を卒業していたとのこと。

 

(人民日報関連の微博)

【正に秀才!#羽生結弦早稲田大学を卒業# 】 メディアの報道によると、冬季オリンピックフィギュアスケート男子シングル金メダリストの羽生結弦早稲田大学人間科学部を卒業したことが先日正式に公表された。コロナ禍による競技の空白期、羽生結弦は学業に重点を置いた。今年の8月には日本のメディアを通して既に卒業論文を完成させたと明かした。テーマはフィギュアスケートにおけるモーションキャプチャー技術利用の展望について。今年の9月には既に早稲田大学の広報に「優秀な校友」として名前が挙がっていて、既に正式に卒業していたことが示されていた。彼が早稲田大学在学中、羽生結弦は競技成績を伸ばし続け、ソチと平昌の二度の冬季オリンピックを連覇。カリキュラムは全て試合の合間やオフの期間にこなした。自分を律する力と集中力だけでなく、時間管理も超一流だ👍👍👍

 

フィギュアスケート金メダリストの「氷上の貴公子」であるだけでなく、羽生結弦は謙虚な秀才でもある。宮城県東北高校を卒業後、明らかにスポーツ推薦で大学に入れるにも関わらず、スポーツ推薦ではなく一般入試で早稲田大学に入学した。彼は通信課程で学業を続けながら世界各地の試合に出場した。インターネットで学ぶことが出来るとは言うものの、常にテストや課題が沢山あり、単位を取るのは決して簡単なことではなかった。

 

羽生結弦の大学での専門は人類情報学。彼がこの専攻を選んだのは人体工学に興味があり、ジャンプや動作をどのような角度で、どれぐらいの力で、どんなスピードで行うのが最も合理的なのかを科学的なデータで分析したかったからだと言う。

 

「AI採点導入など、スケート界の発展に役立てたい。」

 

羽生結弦卒業論文の中でこのように書いている。コロナ禍の中、フィギュアスケートの試合やショーは中止を余儀なくされ、羽生の練習時間にも大きな影響が出ている。そんな状況の中、彼が取った行動は——

 

「勉強してました。ひたすら。」

 

彼は自分の体にモーションキャプチャの機器を付けてリンクで実際にジャンプを跳んだ後、3D技術でパソコンの画面上に映し出し、デジタル画像を作成した。テクニカルな動作の一つ一つには細部にわたる精巧な表現が必要だ。これは世界最高の技術を持つ羽生にしかできない研究だ。

 

(写真のキャプション)羽生結弦卒業論文

 

知乎(日本で言う「知恵袋」のようなサイト)では、羽生のことをこのように評するネットユーザーたちがいる:

 

  一心に練習を続けるアスリートが何故早稲田大学にまで入れたのか?

 

  最年少のオリンピック金メダリストは何故少しも休まず、揺るぎない気持ちを持って歴史を切り開いて行くのか?

 

  世界一になりたいと決意している少年が、感謝の気持ちを持ち続け、謙虚な態度でいられるのは何故?

 

  身体能力に優れたアスリートが、話し出すと司会者のように完璧で、付け入る隙が全くないってどう言うこと?

 

  激しい衝突事故に遭って手当てをしたばかりのアスリートが、相手選手の怪我の状態を心配するなんてどう言うこと?

 

  深刻な怪我をして意識も朦朧としていたアスリートが、何も顧ず、何度も転び、傷口から血を滲ませながらも最後まで試合を放棄しなかったのは何故なのか?

 

羽生結弦は相反する面を備えた人物で、しかもそのギャップが私たちに沢山の驚きと喜び、感動をもたらしてくれる。自叙伝『蒼い炎』には彼が学んだことや彼の考え方が記されている。

f:id:kuppykuppy:20201122122805p:imagef:id:kuppykuppy:20201122122710p:image

 

フィギュアスケートとの出会い

4歳の羽生は喘息のせいで身体が弱かった。姉と一緒にスケートの練習に通っていた彼は、一般的な腕白な男の子と同じく集中力がなく、友達と一緒にふざけてばかりいた。その頃はまだ羽生には天賦の才能の気配は見えていなかった。

 

「もう滑りたくない、野球をしたい。」

 

羽生は父親に直談判しようと無邪気に考えていた。

 

「じゃあ、やめればいいよ。野球ならお金もかからないし。」

 

父親は羽生を一瞥して、軽く答えた。

 

このことは羽生が真面目に考えてみるきっかけとなった。観客の前で演技する時の胸の高鳴り。その時間はとても幸せだった。それは練習が嫌だからと言って捨てられるものなのか?そんな思いを廻らせ、羽生は練習を続けることを選んだ。

 

(写真のキャプション)2000年 5歳の羽生結弦(写真は羽生結弦本人が提供)/『蒼い炎』より

 

その時からリンクには、熱心に練習をする姿が一つ増えた。スピン、ジャンプの跳び上がり、着氷。他の者が30回練習するなら、羽生少年はその倍練習した。フィギュアスケートを選んだからには最善を尽くさねば。彼は心の中に夢の種をひっそりと植えた。

 

6歳の時羽生は『草競馬』で人生初の金メダルを手にした。キノコヘアーとジャージ姿で表彰台に立った彼はトロフィーを会場中の人に見えるように高々と掲げた。ただし、抜けて隙間がある前歯が見られないように口はしっかりと閉じて。

 

(写真のキャプション)2004 年 12 月 タンペレで行われたサンタクロース杯 ノービスA で優勝(写真は羽生結弦本人が提供)/『蒼い炎』より

 

彼は憧れの人——プルシェンコと同じ髪型にして、表彰される時のポーズも真似ていた。何故ならひっそりと抱いていた手の届かない目標は、プルシェンコのような素晴らしい選手になることだったから。

 

「何かをやるならしっかりやらなければ。やりたくないとしても、自制心を学ぶことが大切。」

これは羽生が持ち続けている信念だ。

 

2007年,彼は特別参加選手という立場で全日本ジュニア選手権に出場し、3位に輝いた。試合の中で彼はやすやすと各種の3回転ジャンプを披露した。これにより中学生になったばかりの少年の存在がフィギュアスケートファンたちに知られることになる。そして、男子選手として歴史的な記録を刻むことにもなった。

 

抜きん出た成績により、羽生はシニアへの道を邁進し始めた。

 

夢を阻まれて

「今でも目をつむると、いろいろ思い出すんです。氷が揺れている感触、地面が押し上げてくる振動、足が勝手に動いてしまう恐怖・・・・。リンクが壊れていく瞬間が、全部鮮明に浮かんできてしまいます。」

 

2010年、15歳の羽生は世界ジュニア選手権で群を抜く成績で頭角を現し、その存在は広く知れ渡った。彼は更に信念を固くし、フィギュアスケートの道を進んで行った。

 

2011年、学校が休みだった羽生がリンクで練習をしていた時、突然貸し靴の棚がぎしぎしと揺れ始めた。次いで入り口のガラスの扉が猛烈な勢いで揺れ、足元のリンクには裂け目が出来ていた。羽生は凄まじい揺れを感じた。強烈な衝撃で地面に倒れた彼はゆっくりとリンクから這い出すしかなかった。

 

3月11日、仙台で起こったマグニチュード9の地震

 

リンクと一緒に粉々になったのは、まだ産着にくるまれた生まれたばかりの夢。夜の帳が降りると、世界の全ては果てのない真っ暗闇に包まれてしまった。羽生は家族と一緒に狭い避難所に身を寄せ、一枚の薄い毛布で身体を覆った。冬の風は一切容赦がない。羽生はぼんやりと天井を眺めていた。

 

「リンクがなくなり、練習場所がなくなってしまった。僕のスケート人生はどうしてこんなことになってしまったんだろう。よりによってどうして僕が千年に一度の災害に遭ってしまったんだろう。」

 

遠くの方では石油ランプが付いたり消えたりしている。冷たい風と余震の中で考えても答えは見つからなかった。

 

「人は決して一人きりでは生きていけない。支えられ、守られてたんだ。」

 

震災後の羽生は家族、コーチ、仲間、ファンに励まされた。練習拠点を失った羽生はショーに出ることで練習の機会を得た。5ヶ月間に彼が出たショーは50公演以上。

 

音楽グループHi-Fi CAMPの『R』の中に羽生が好きなフレーズがある:

 

「沈む陽が街を包み込むように 優しい人になりたい。」

 

(写真のキャプション)Hi-Fi CAMPの『R』の歌詞

 

(続きます)