kuppykuppy’s diary

中国語で書かれた羽生結弦選手関連の文章を色々と翻訳しています。速報性皆無のマイペース素人翻訳ですが、よろしければお読み頂ければ嬉しいです。 Twitter:@kuppykuppy2020

人民日報体育の記事「羽生結弦:僕の漫画はまだ終わらない」①

世間はCちゃん匂わせや白壁通信で賑わってますが、先月微信(WeChat)にアップされた人民日報体育の記事です。

中国共産党の機関紙である人民日報が海外の選手に関してこんなにも凄い熱量のこもった記事を書くなんて凄いことでは?!ということで久々に頑張って訳した長文です。長いので今回はまず途中まで。

 


執筆 季芳
人民日報体育 8月26日


少し前に「人民日報体育」が微博にアップした#記憶に残る解説の名場面#というトピックス。いいねとシェアが一番多かったのはCCTVの解説者である陳滢の詩情あふれるコメントであったーー

「顔かたちは玉(ぎょく)の如し。 姿は松の如し。 雁が跳ぶかのような軽やかさ 。龍が動き回るかのようなしなやかさ。ソチオリンピック王者が平昌オリンピックで4回転を跳ぶ若き将軍達に挑まれる様を見て、私が思い出したのがこのフレーズです。ーー運命が勇士に囁いた:嵐に抗うことはできぬ。 勇士は囁き返した:私が嵐だ。」

 

この人は羽生結弦。鞭打たれなくても自ら突き進む男。

 

フィギュアスケートの世界には並ならぬ容姿を持つ優れた人物が大勢いるが、その中でも漫画のような顔立ちをした羽生結弦は特別な風格を持つ者の一人だ。か細くてクールな少年のような身体の中に秘められた強靭で逞しい心。この極めて大きなギャップが人々を虜にしている。

一生懸命であった十代の結弦。羽生結弦の父親は我が子にこの名前を付けた理由についてかつてこう説明していた。一つは彼が射手座であること。もう一つは弓の弦が伸び縮みするように抑揚のある人生を送り、張り詰めるべき時には凛とした態度で日々の生活に向き合って欲しいという願いを込めたのだと。


羽生結弦の出現により、漫画の主人公が現実の存在となった。圧倒的な勝利を重ねてゆく姿はまるで異次元から来た王者。あるイタリア人解説者が試合の度に必ず言うフレーズの通りだ。「惑星ハニューへようこそ、住人は羽生結弦ただ一人。」

(写真のキャプション)4歳の羽生結弦は好奇心から姉と一緒にスケートリンクへ通った。いずれフィギュアスケート界の伝説になろうとは思いもせずに。

日本の東北地方にある仙台は多くのアニメの舞台になっている土地だ。1998年のある日、1人の4歳の少年が姉と一緒にスケートリンクに連れて来られた。キラキラと輝く氷面をぼんやりと見つめる少年の頭の中は疑問符でいっぱいだったかも知れない。「息子よ、滑ってごらん。」父と母は喘息を患う息子を促した。

まるで主人公が逆境に立ち向かってゆく漫画の冒頭のシーンのようだ。そしてその少年の美しい名前はこんな場面をイメージさせる:天から舞い降りて来た一片の羽がそっと弓の弦に触れた。矢は放たれ、的の真ん中を射る。

外見、才能、性格、才気。羽生結弦フィギュアスケート界で天に選ばれし者とみなされ、人類の技術難度の突破口を一つまた一つと切り開いてきた。名を上げてからは毎回演技が終わった後に天地を覆い尽くすように降ってくる「熊のプーの雨」が「多くの人の寵愛を一身に受ける」主役のオーラを一層強いものにしている。

本当にそんな「チートモード」の人生があり得るのか?羽生結弦の「台本」をじっくり見ると、彼は確かに幸運の女神に愛されてはいるが、これまでに何度も転び何度も起き上がって来たことがわかるだろう。唯一無二の羽生結弦をデザインしているのは究極の美と究極の信念だ。


「辛いことは沢山あっても、明けない夜はない。」羽生結弦は天の寵児などではない。逆境の中でのひたむきさ、見る者に衝撃を与えるような精神力、それこそが記憶に残るまばゆい場面を作り出しているのだ。

熱血漫画の連載はどれも一番のピークで終了する。しかし26歳の羽生結弦の人生の漫画はまだまだ最終回を迎えようとしない。

 

 

——できることを出し惜しみしてやっていたら つまらないじゃないですか?——

(写真のキャプション)羽生結弦卒業論文フィギュアスケート分野への技術サポートの未来を明示する内容。彼の優秀さがよくわかる。

コロナウイルスの感染拡大が始まってからフィギュアスケートの試合やショーには「一時停止ボタン」が押され、羽生結弦も「引きこもり」状態になっている。この時間を利用して、彼は「重要なこと」を成し遂げた。——それは卒業論文を書き上げたこと。早稲田大学で人類情報科学を専攻している彼の研究対象はやはり「自分自身」であった。

この《3Dモーションキャプチャによる陸上でのジャンプの研究》を見ると、彼が「データを残したい、データを伝えたい。」と言っていた意味がやっと分かる。フィギュアスケートの世界で羽生結弦は本当に独特なモデルだ。

羽生結弦が生まれた1994年は、日本ではまさに「ゆとり教育」が推進されていた時期。この政策は多くの保護者から批判を受け、新しい世代にはかつての日本人にあった懸命に努力する精神が無くなったなどと言われた。

 

父母に送り出されてスケートの道に踏み出した当初は、スポーツによって喘息の症状を和らげることが目的であった。この根治が難しく発作が繰り返し起こる持病は、羽生結弦の練習を常に制約した。症状が出ると呼吸が困難になり、毎日2時間しか氷上にいられなかった。

(写真のキャプション)少年時代、羽生はスケートに拒否感を持ったこともあった

幼かった羽生結弦にはフィギュアスケートの苦しさに耐えらなかった時期があった。遊びたい盛りの頃には練習をさぼるためにアイスリンクのチラシを丸めてボールにし、教室の他の男子たちとしょっちゅう野球をしていた。もともと息子に野球を習わせたかった父親はこの機会に乗じて提案した。「スケートが嫌ならやめてもいいよ。」

1998年、長野で冬季オリンピックが開催され、日本ではフィギュアスケートブームが巻き起こった。リンクに上がり始めた頃から、幼い羽生のアイドルはロシアの名選手プルシェンコだった。彼は「皇帝」と同じキノコカットにし、表彰されるときには彼と同じスタイルでトロフィーを高く掲げた。「5歳の頃から、どうすればオリンピックで金メダルが取れるかを考えていました。」

(写真のキャプション)小学4年生の幼い羽生が初めて「オリンピックで金メダルを取りたい」という目標を公言

 

「本当にスケートが好きなのか?」父親が突然投げかけたこの言葉が羽生結弦の心の奥に問いかけてきた。「やめる」という選択肢が目の前に現れて彼は初めて意識した。スケートはもう自分の血に浸み渡った「命を懸けて続けるべきもの」なのだということを。

少年の固い決意と恐れない心。ここから漫画のようにモンスターを倒してはレベルアップをする茨の道が始まった。喘息のためいつも治療薬が手放せない羽生結弦が他の選手並みの練習をするには倍の時間がかかったが、不平を漏らしたことはない。「できることを出し惜しみしていたらつまらないじゃないですか。どんな状況でも全力で頑張るだけです。」

 

(写真のキャプション)幼い頃の羽生結弦

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日本のメディアは当時の貴重な映像資料を沢山保存している。カメラがとらえた幼い羽生結弦のリンクでの心からの笑顔。まるで「育成系」のスポーツアイドルのリアリティーショーを見ているようだ。後にリンクで見せるようになった目を奪うまばゆい演技。その手がかりは日々の生活のちょっとした事の中に垣間見える。小さい頃から羽生結弦はスケート靴を何よりも大切にしていて、どこへ行くにもケースに入ったスケート靴を持って行き、毎回必ずエッジを綺麗に磨いては丁寧にしまっていたと言う。

心からの熱愛の気持ち、それがあってこそ大きなエネルギーが爆発する。青少年期の羽生結弦が、授かった才能に全身全霊で磨きをかけていた頃、困難を乗り越えて果敢に進む為の更なる大きな舞台が彼を待ち構えていた。

 

(翻訳)人民日報体育の記事「羽生結弦:僕の漫画はまだ終わらない」② - kuppykuppy’s diaryに続きます。